綺麗に映すカメラよりも、汚く撮影するカメラを作って欲しい
一般的に、カメラは綺麗に映すことが求められます。まあ、宣伝・広告の目的を考えれば、ユーザーの興味を惹きたいのだから美しい情報を伝えることは当然のことです。
しかし、昨年、とある機会があって、ゴミの大掃除をしていたのですが、その時に、「綺麗な画像情報を伝えることだけが、カメラの在り方ではないのでは?」と強く感じることがありました。
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綺麗に映すカメラだけでなく、汚く撮影するカメラもないと、なんだか恐ろしいことになる気がした
ゴミ屋敷の大掃除はとても大変だった
事情があって詳しくは書けないのですが、昨年、ゴミ屋敷の掃除をすることがあって、じつに丸5日ほど、時間を割くことがありました。これは自分一人で丸5日ではなく、他の人の工数も含めての丸五日ですので、人日計算にすると、二桁ほどの工数になるほどのボリュームです。
あんまり思い出したくないのですが、とにかくゴミを処分し続けた日々でした。
ゴミ屋敷の酷さをカメラで記録しようとしたが・・・
初日、現地を視察した自分は、ゴミ屋敷のひどさを関係者の人にも知らせるべく、カメラを持ち出して写真に収めました。この時に、とても困ったことが、「カメラで画像にすると、なんだか綺麗に映ってしまう」ということでした。
カメラは「景色の汚さ」を表現しようとしても「綺麗に映そう」としてしまう
ゴミ屋敷は、大量の積み重なったゴミもそうなのですが、よくよく見ると、虫の死骸だったり、空気中のホコリだったりがあって、さらには視覚的な情報以外にも、どんよりとした湿気だったり、鼻にくるような匂いだったり、さまざまな不快要素が複合して存在しています。
人間が五感を通じて得る情報。
しかし、カメラが切り取れるのは、そのうちの視覚的な景色の一部分のみです。細かい虫やホコリなんかは画像に鮮明に残らずボヤけてしまって、全体像・構図は良い具合に切り取られて「なんだか景色として見れちゃう写真」になってしまうのです。
写真で見せた反応と、現場を見せた反応はかなり異なった
最初、関係者の人にゴミ屋敷の写真を見せると、「ああ、思ったより綺麗そうだね」という反応でした。しかし、後日、実際の現地を見せてみると、「・・・なかなか大変な状態だね」と、態度は急変しました。
この時に思ったことが、写真で切り取った映像は、良い意味でも悪い意味でも、「断片的な景色にしか映らない」ということでした。結局、写真以上の情報を得るためには、読み手側の体験に基づく脳内補完が必要であり、その精度は各人によって、大きく異なってしまいます。
そうなってくると、ゴミ屋敷なんかよりも、もっと気になることが思い浮かびました。それが、「災害」です。
「災害」の現場は、カメラなどで記録した映像以上に大変なことが起きているハズ・・・
台風、洪水、津波、地震、火事、噴火など、災害は日本にも数多く存在します。そして、それらの被害状況はカメラやビデオなどによって記録された情報で、ニュースとして報道されます。
ただ、この時にユーザーは、本当の意味で現場の凄惨さを理解することはできません。あくまで、現場の状況を推察するためのヒントを得るだけです。実際に体験したことのある災害であれば、だいたい理解できますが、自信が体験したことのない災害であれば、どことなく無機質な情報のままとなってしまうのです。
そういう意味では、「災害」に触れずに育つ、ということは、望ましいことではあるのですが、なんだか危険なことでもあるように思えます。
汚く映すことの必要性
カメラは基本的に綺麗な景色を映すことばかりが売りになっていますが、しかし、「情報の価値」を考えるなら、時に「汚く映すこと」も大事なのでは・・・? と思います。
もう少し正しく言うなら、「人間が五感で認識する景色を正確に記録する」といったデバイスが欲しい、という感じでしょうか。色んな災害によって被災地となった場所のことを写真でしか知らないということは、すなわち欠損した情報までしか取得していない、というようにも言い換えられます。
カメラでは補足しきれない部分の情報をどのように伝えるか。これは、とても大事なテーマのように思います。
まとめ
まあ、人間が実際に見ている物をそのまま記録するデバイスというのはひとまず実現が難しいとは思います。ただ、もしも、汚く映すことのコツだったり、汚く映すコンテストみたいのがあれば、それはぜひ勉強してみたいなと思いました。